2010/05/17

the last day





良い意味でも悪い意味でも、「戦争」というものに奇妙な魅力を感じるようになったのは一体いつの頃だったろうか。大衆が国家、大義、正義を掛けて殺し合う。そこに多くの死があるからだろうか。或いは、飢餓や貧困、戦争やテロリズムとは無縁な日本に住むせいで、悲劇に餓えているからなのか。カント曰く「自然状態とはむしろ戦争状態」だからなのか。最初に興味を持ったのはナチス政権下のドイツのプロパガンダ政策だった。ヨーゼフ・ゲッベルスによる巧みな扇動によって、人々はユダヤ人を迫害し、結果二十世紀の負の遺産とも呼ばれるジェノサイドが起きた。アドルフ・ヒトラーは言った。「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい」、と。例え偽りであろうと、大衆が認めればそれは真実に成り得る。技術革新によって映像によって訴える事を手に入れた彼らは、広報用の映画を作成し、人々の頭に刷り込ませていった。まるで呪いの言葉の様に。


この「虐殺器官」の舞台は9.11のWTCの悲劇から何年か後の未来を舞台にしている。真珠湾以降、攻撃を受けた事のなかったアメリカの神話を尽く打ち砕いたあのテロ事件は、アメリカ国民だけでなく、世界を震撼した。貿易センタービルが崩れ落ちる映像を見ながら、誰もが思っただろう。「何かよくない時代がくる」、と。
物語の冒頭は、主人公である米軍大尉クラヴィス・シェパード大尉の夢から始まる。「ぼく」が語るグロテスクで生々しい戦場や死の描写とは対照的に、「ぼく」自身はどこか子供で、あどけない印象を受ける。彼は苦しみ、恐怖する。己の母親の生命維持装置を止めてしまった事、つまり、自分の母親を「自分の意思」で殺したことを。「軍の命令」ではなく、「ぼく自身の判断」で手に掛けたことを。
軍の命令で人を殺さなくてはならない時、兵士は己に何と言って聞かせるのだろうか。カントの流れを汲む道義論的には「正しい事のみをすべきなのだから、人殺しをしてはならない」となるが、19世紀の功利主義的考えに則れば、「それで多くの同胞が救われるならば、殺してもいい」となる。恐らく彼らの精神衛生上は後者であろう。だが、引き金を引く自分自身の良心の呵責は、彼らが余程無神経、或いは感情を欠いていない限り一生ついて回る。実際、帰還兵にPTSDを発症する兵士が多いのもそのせいだろう。大義名分があるとは言え、人を殺す事に対するカント的な道徳観念がどこか頭の隅で居座っているからだ。だが、シェパード大尉にとってその他大勢の命よりも、母親の命の方が重かった。それがこの物語の軸だろう。
シェパード大尉はある男の暗殺を命じられることとなる。諸外国で頻発するテロや虐殺の陰に必ずつきまとう、「ジョン・ポール」という男だ。ジョン・ポールは「虐殺器官」を使って戦争を、虐殺を、混沌を扇動する。渡り鳥のようにあちらこちらの国を渡って、人々に戦争を刷り込む。争いを呼び起こす彼の目的は一体何だったのか。大量の屍を築き上げて、何をしたかったのか。その動機は、妻子をテロリズムで失った憎しみからくるものなのか。物語の終盤でシェパード大尉と対峙した彼は言う。「彼らの憎しみがこちらに向けられる前に、彼ら同士で憎しみあってもらおうと。彼らがわれわれを殺そうと考える前に、彼らの内輪で殺しあってもらおうと。そうすることで、彼らとわれわれの世界は切り離される。憎しみ合う世界と、平和な世界に」

愛する人々を守るために、途上国の不平不満が我々先進国に向けられる前に、途上国同士で潰し合って貰おう。

酷い発想だと言うかもしれない、けれど、きっと誰もが無意識に思っている事ではないだろうか。己の平穏のために他人を犠牲にする精神こそ、私達の意識下に染み着いている人間の本能なのかもしれない。だが私は、間違っていないと思う。幸福を求める権利はきっと誰の前にも平等だ。だが、それを実行出来る立場にあるのか、ないのかで不平等が起きる。「最大多数の最大幸福」を求める事が絶対的に正しいとは言えないが、少しでも多くの人々が少しでも幸せでいられるような世界であって欲しいと思う。「ぜんぶ」は無理でも、私の大切な「たくさん」の人達が幸せでいられる世界であるように。まあそこを追求し過ぎると、ジョン・ポールになってしまうのかもしれないね。


昔、「誰ひとり余すことなく幸福になれるのなら何だってして見せる」と言った友人がいたけれど、今、遠い海の向こうで頑張っているらしい。ジョン・ポールのように殺す祈りではなく、彼の様に生かす祈りでありたいな。

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